最終更新: 作成開始: 4-10-24 最後↓
赦しに取り組めるようになるまでに必要な精神段階を考察
人は誰しもすぐに赦しに取り組めるようには出来ていない。
本人がいくら赦しを求めていたとしても、である。
その理由は、端的に言えば「あなたは赦しだけが、つまり神の救済だけが唯一の目的となっていない」からである。(参照:YouTube動画)
「赦しを本気で求めている!」と言っているそんなあなたであっても、実際のところ「赦し以外のことを大切にしている」、というのが真実である。(参照:W L-65.1 , T-2.Ⅱ.3)
つまり「自我から赦しを取り組もうとしている」からである。
「不幸をなんとかしようとしている、幸せになりたがっている」からである。
純粋に赦しを求めているのではなく、幸せを求めている、つまり「幸せになることを目的としている」からである。
この自我からの赦しではなく、真の自己からの赦しへと、いつこの取り組み姿勢がシフトするのかが問題である。(参照:T-4.Ⅲ.4)
この、人が赦しに取り組めるようになるまでに、つまりこのシフトがいつ起こるかについて、どのような精神段階が必要なのかを考察してみる。
きっかけはX氏
考察を深めるに至ったキッカケとなったのは、X氏。
敬愛するX氏の「他人の自我の印象(個性)を季節的に分類」説だ。
自我が重いと「冬」、軽いと「春」。
詳しくはX氏のブログを参考にして欲しいが、季節分けによって赦しに近いかそうでないかが分かるかも、と納得感を持って受け入れた。
だが、赦しが出来るようになった人に共通する季節が必ずしも「春」だった訳ではない。
「梅雨」だった人もおり、季節分けで赦しの近くにいるかどうかの判断は難しい。
セッションを受けに来たときのX氏は、ご自身では何と分類するのだろう、共通しているだろうか。
ニーチェの「精神の成長の三段階」説
そこで思い浮かんてきたのが、『ツァラトゥストラかく語りき』に出て来るドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェの「超人思想」に現れる「精神の成長の三段階」説だ。
超人に至る過程での、駱駝、獅子、幼子の喩え話である。
『人は、はじめは駱駝(らくだ)のようにひざを折り、その内に自我に目覚めて獅子となる。 だがしかし、最後には幼子となる』
ニーチェが何を意図していたのかは残された者としては推測するしかないが、一般的に言われている理解とは少々違うものになってはいるが、私自身の見解を述べたいと思う。
第一段階:駱駝(ラクダ)
「駱駝」は、忍耐や従順を象徴する。ラクダは重荷を背負い、社会や伝統に従う存在。 個人は外部の価値観に依存し、自己を抑圧している状態。(AIリサーチより)
第一段階の「駱駝」では、親や社会などから期待される価値観を受けて生きる時期。 生きているこの世界には実際のところ「正解」はないのだが、あたかも「正解」があるかのごとく、社会通念あるいは親世代が善しとする価値観が与えられ、それに可能なかぎり合わせて生きていくことが「正解」と見て歩みを進める。 これらの要求に応えられればオーケーであり、そうでなければノーとなる。
この親や社会などから期待されている「正解」が、ニーチェがいう「あなたにとっての神」であり、「神の掟」である。
もう少し厳密に言えば、この「正解」の奥に横たわる抽象的概念である「幸せになること」が「あなたにとっての神」である。 そしてそのための手段として誰かが考え出した「有名になる」「金持ちになる」「権力者になる」「道徳者になる」「聖人になる」、そのために「学歴が大事」「子供を持つこと」「掟を守る」などが従うべき「あなたにとっての神の掟」である。
「そんな神」にあなたは従う。
通常は周囲の期待に応えようとし、常に周りの目が気になり、周囲が一番で自己が二番手となり、自己犠牲が強いられ、抑圧され、結果自己を発揮できずに見失うこととなる。 だがこれが「自分にとっての神の掟」であり「正解」だと思っているので、自己を見失っているといった自覚はない。
この社会の価値観に沿って生きるということは、自らが決定した価値観を生きていないため、人生における自己責任が伴わない。
誰かの言われた通りに生きているということであり、うまくいけば他者評価が受けられるものの、「正しく」動いていたとしても必ずしもうまくいくとは限らない。
その場合、自分ではなく他人や社会に対して責任転嫁を行う。 「人のせい」にする。 いわゆる投影である。 「正しく」動けない場合は、自責に走る。
「正しく動けない自分」を非難する。 また「みんなもやっているし私もやっているのだから、あなたも同じようにやりなさい」と、他者への価値観の押しつけもよく見られる。
うまくいかない理由、つまり自分の人生の不幸は「人や社会のせい」ということになり、「自分がダメだから」となる。
いずれにせよ主導権は周囲の側、「そんな神」の側にあり、自己に主導権はない。
よって、自己主張である「自分はどうしたいか」はない。 あったとしても「あなたの設定する神の範囲」でしか主張できない。 「そんな神」を超えての主張はできない。 つまり、真には自分を生きていない状態であり、人生が空疎で空虚な感じが常につきまとう。
周囲の期待に応える「正解」をいくら選び取ったとしても、自己よりも周囲への「正解」のほうが優先順位が高いために、満たされない自己が取り残されたままとなり、不満が高まっていく。
この「駱駝」の段階は、私の勝手なイメージでは、「運転席に座る車を私が自分でアクセルを踏むことなく、大人たちが後ろから押している」というもの。
周りの大人たちが私の危険がないように、私に勝手に運転させるよりは、後ろから押すことで(つまり私を大人たち側に従わせることで)、人生を幸せに歩ませる、というもの。 だが人生はそんなに単純には出来ていない。 いずれどこかで他人任せではなく、自分の人生を生きることが必要になってくる。 つまり「自分でアクセルを踏む」ことが必要になる。
周りの言う生き方に従って生きるだけではなく、自分なりの生き方を模索し始める。 周りの言うことが正しいのか、他に道はあるのか。 周りの価値観に従うことで得られていた恩恵を諦める葛藤もそこには生じる。 自分を信じることが伴う。 ついに自己責任の覚悟をもってコトを企てる。 そう、自立の始まりである。
従うことで得る恩恵よりも不満のほうが高くなったとき、第二段階へ人は進むことになる。
つまり得られる恩恵をかなぐり捨ててでも自分が善しとする生き方を選択する、ということである。
ただしこの自分を発揮することは、他者の意見よりも自分を優先するということであり、これまでの恩恵をかなぐり捨てる決断でもあり、人によっては死ぬほどの覚悟が必要となる決断となる。 もちろん、病気や事故、会社が倒産するなど不測の事態によって、その決断が早まる場合もある。
言ってしまえば、茹でガエル状態だ。 釜のぬるいうちはカエルも安泰だが、いずれ湯は熱湯に到達する。 すぐであれば飛び出せるものの、ゆっくりと温度が上がっていけば飛び出すタイミングを逃し茹で上がってしまう、あの話しだ。
これは真綿で首を締めあげられる状態とも言え、その進行が遅い場合はいつまでもぐずぐずと決断を引き延ばすことになり、死ぬ間際になって「ああ、あれをやっていればよかった」という後悔の念をもって死を迎えることもあり得る。
この段階にいる人たちは数多く見られる。 言いつけを守る真面目でいい子だ。 そんな彼らに罪はない。 だがいつかは次へ進む。 次への道はある意味「反抗期」がその役割を担っていると言えるかもしれない。
第二段階:獅子(ライオン)
「獅子」は、自由と力への意志を象徴する。 この段階では、個人は従来の価値観を問い直し、自らの欲望を追求する力を持つようになる。 ライオンとして「我欲す」と叫び、自己の意志を強く表現する。(AIリサーチより)
第二段階は「獅子」である。
反抗期である。
反逆期である。
もうこれ以上は、言いつけを守る真面目でいい子ではいられないし、やれない。
親や社会が要求する「正しいやり方」ではなく、自分の生き方を選ぶという生き方だ。
自分の責任で、自分が「正しいと思う」生き方を生きる。
自己責任を覚悟した生き方である。
だが、実はこの段階では、まだ真に自分を生きているとは言えない。
あくまでも、「幸せになるため」に、親や社会が提唱する「正しい」やり方に反抗しただけである。
そう、まだ「幸せになる」という価値観の中にあなたはまだ居るのである。
言ってしまえば、孫悟空が筋斗雲に乗っていくら遠くへ移動したとしても、所詮はお釈迦様の手の中を走り回っているにすぎないのだ。
とはいえこの生き方をまずは徹底的に生きる必要がある。
何か成功するかもしれない。 そうでないかもしれない。
それはそれでいい。
少しの間は幸せを感じることができるかもしれない。
だがそれも束の間の出来事である。
いずれにしても、欲しかった「究極の幸せ」はいっこうにやってこない。(参照:T-31.Ⅳ.2)
彼らは常に、どうやって「成功するか」、どうやって「勝つか」、どうやって「幸せになるか」、どうやって・・・ばかりを考える。 つまりは手段の話ばかりだ。 実はそれが苦しみの原因になっているとは知らずに。 なぜならそれは「幸せ」への誤った執着だから。 この執着が外れない限りどうにもならない。 奇しくも釈迦も 「執着こそが苦の原因」だと言っている。
これもそれでいい。 生ききることだ。
生ききった先に、「もうダメだ。」これ以上は先へは進めない。 限界だ。 自分への絶望。 完全なあきらめ。 人生への降参。 ヘトヘトでもう声も出ない。 涙だけがただこぼれ落ち流されるだけとなる。
そして次の瞬間、第三段階に進むことになる。
第三段階:幼子(無垢なる者)
「幼子」は、無垢さと新たな価値の創造を象徴する。 この段階では、個人は過去の価値観を超え、全ての事象を無条件に受け入れる能力を持つ。 幼子は「聖なる肯定」を体現し、人生の無意味さを喜びとして受け入れる。(AIリサーチより)
第三段階は幼子、無垢なる者、そうこれは真のあなたである。
真のあなたにアクセスするには、「駱駝」→「獅子」と通過してこなければならない。
そして「獅子」の段階で、「幸せになるため」にはどうしたらいいかを自己責任で選び取る、選択してくる必要がある。
これを生ききる必要がある。
そして「これではない」とはっきりと認識する、気づく、悟る必要がある。(参照:T-24.Ⅱ.14 , T-31.Ⅳ.3 他)
そう、この生き方は成功しないのだ。
幸せにはならないのだ。
なぜなら「幸せになろうとする」これこそが自我の戦略だからだ。
「幸せになろうとする」のは「今はまだ幸せでない」、よって何かしらの方法で「幸せになろうと」努力する。
これは、「幸せ」を未来に求めていることになる。
時間をかけ獲得するというこの考え方は完全に自我の戦略そのものである。
獲得することで幸せになれるとする「その何か」、まさに自我による『偶像』を求めていることになる。(参照:T-29.Ⅶ.6 , T-29.Ⅷ.8 , T-30.Ⅲ.1 他)
自我の思うツボであり、徹底的に生きることで「これは何かが変だ」と感じないかぎり抜け出せない。
この「幸せ」への執着、この執着への徹底的こだわり。 「幸せになるために」手に入れるべき「何か」に対して徹底的に追求した先に、これ以上の追求がもはや不可能であることをはっきりと見出す現実に直面し、ヘトヘトになり、もうダメだと諦めたとき、扉が開く。
そう、もはや「幸せになる」ということなど、一切どうでもよくなる地点である。
まさにニーチェが言った「神は死んだ」である。
一般的には「神は死んだ」という言葉は、従来のキリスト教的価値観の喪失、近代社会における価値観の崩壊を象徴するが、それを応用。
あなたが信奉してきた「あなたにとっての神」があなたにとっては「死んだ」のである。
これは祝福以外の何であろうか。
まったくもって素晴らしいことである。
そしてこのとき、「幸せになることなんてどうでもいい」。 さて、そうであるなら、そして何だってしていいのなら「この自分はほんとうのところどうしたいのだろうか?」
この質問にあなた自身が答えることになる。
そう、この答えこそが「真の自己」から出てきた答えである。
ちなみにこの「ほんとうはどうしたい」という問いかけも「真の自己」からやってくる。 だから意図して考えずとも問いがやってくる。
自我によらない答え、自身の中の幼子の声である。
幼子に初めてアクセスできたその瞬間である。
そう、この瞬間、あなたは「あなたにとってのこれまでの神」から、「あなたにとっての真の神」にアクセスできた瞬間である。 これがあなたにとっての真の神であり主である。
そう、あなたは問いかけを持つ(先に立って何かをしようとする、先導しようとする)このあなたではなく、その問いかけに答える真の自己、自分の中の神である主なる幼子を愛する、その接待する役を果たすことに目覚めた瞬間である。
【マタイによる福音書 22章 37-38節】
イエスは言われた。 「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。」
そしてこの瞬間、また同時に、これまでいかに幼子である自分自身をないがしろにしてきたか、ひどい仕打ちをしてきたか、「あれはダメ、これもダメ、ああしろ、こうしろ、何でできないんだ、もっと頑張れ、へこたれるな、努力しろ」などと、指示命令罵倒激怒を繰り返してきたかに思い至り、むせび泣く。
また、これまでこのひどい仕打ちにただひたすら耐え忍んできてくれたこの幼子である自分自身に対して、文句も言わずに我慢し続けてきてくれた、けなげに付いて来てくれたこの幼い主なる自分に対して、限りなくいとおしく愛らしい存在として抱きしめて愛を贈りたい気持ちそしてその思いが溢れ出てくる。
もう二度とこのような仕打ちをしないことを神である主つまり自分自身に誓い、幼子である自分を大切にし、愛し、意見を伺い、声に聴き耳を立て、その意向に沿ってあげるようになる。
つまりこの自分が自分の主であるこの幼子としての自分自身、その接待主として生まれ変わる瞬間である。
自分自身を愛する、自分自身を愛すると決めた瞬間である。
自分を愛することは自分を癒すことであり、赦しを選択することになる。(参照:T-12.Ⅱ.1)
ようやく準備が整ったということである。
赦しが機能している人、当然のこととして『奇跡講座』を教えている教師たちは間違いなくこの幼子としての自分自身との和解ができているはずである。
彼らは、自分自身をありのまま受け入れる誓いを立てている。 自分自身を赦しており、何があっても赦すと決めている人たちである。 彼らは『奇跡講座』でいうところの神の司牧者であり神の教師である。
ニーチェの「超人」について
これはニーチェの「超人」への道である。
超人は、これら三段階を経て到達する理想的な存在とされ、従来の道徳や価値観を超越し、新たな価値を創造する存在として象徴される。 他者の価値観に従うのではなく、自らの価値観を創造する能力を持つ存在。 自己創造は、常に自己を更新し、自己超越を目指す過程も含む。 ニーチェは、超人となるべく自己の内面を深く探求し、自己の存在を問い直すことを重視した。(AIリサーチより)
まさに『奇跡講座』でいうところの赦しの道が「超人」の道であり、その行きつく先はニーチェの「超人」。
『奇跡講座』の実相に戻る、すなわち完全にすべての罪の贖罪を終える、自分自身の勘違いを解く(完全なる幻想解除)ということになる。 つまり神との分離が一切なくなった人のことである。
最終考察
結局のところ「赦しの準備が整う」までには、依存体質から離れ、まずは自己責任を取って幸せをつかみ取ることに人生をかけ、徹底的に生きることだ。
端的に言えば、「本気で自分の人生を生きる」。
その先に「これではない」とはっきりと自覚することで、行き場を失う必要がある。 手にすることで幸せになれると思っていた「何か」、その執着してきた「何か」を手放す瞬間。
その時ようやく、「幸せになることなどもはやどうでもいい」と自我からの呪縛、洗脳が外れ、自分自身と繋がれるようになる。
ある意味、自我と同一化している自分にとっては「死」を迎えることになる。
それまでは何をやろうと自我の呪縛からは逃れられない。
それほどに自我という恐怖支配は強力。
自我としての自分自身の戦略が破綻し、ようやく自分自身との和解が始まる。
つまり自分自身を愛すると決まる瞬間が訪れるということ。
これがあなたに起こるまでは赦しは不可能。
そしてこれまで書いてきたことも一切意味はない。 つまり役立たない。
なぜなら、頭で考えてやれるものではないからだ。
「愛の表現が先にあるのであって、実際のそれが理論の後に伴うなどということはない。」 J.クリシュナムルティ(二十世紀における最大の哲人)
あなたの中には幼子という神が存在する。 あなたが主であり神である。 神は愛である。 ゆえにあなたは愛である。 あなたに愛がないはずがない。 だからあなたはそのままでいい。 それでいい。 まさにその道にいる。 その生き方でいい。 変えたければ変えてもいい。 変えなくてもいい。 いつだって変えられる。 いつの日かあなたの愛が花開く時がやってくる。 それまでは苦しみを抱えるかもしれない。 苦しみには知恵が内在する。 その知恵を汲み取り、この聖なる循環の輪から抜け出すその瞬間がいつあなたに起きるかは誰にも分からない。 神のみぞ知る。 そしてこれもまた神の計画ということであろう。 神は完璧であるはずだから。
結局のところ「それでいい」。 それだけが存在する。
総括(追記)
「幸せになるために人生はある」。 これが諸悪の根源。 人類がみんな当然のこととして受け入れて生きていること。 ニーチェ風に言えば「これが今のあなたにとっての神」である。 「神の掟」である。 これを信奉し大事にし信じ切っている。 当然のこととしている。 暗黙の了見となっている。
これこそが完全に自我の目標であり戦略。
既に信じ切っている我々は、結局のところ「今信じているあなたにとっての神」を本気で信じ大切にして生ききらねばならない。 それが自我であったとしても。 なぜなら完全にそう信じ込んでしまっているのだから。 無意識にまで刷り込まれてしまっているのだから。
完全に生ききることで、それが絶対に叶わないことをはっきりと悟ったとき、初めて「あなたにとっての神」を棄てる瞬間がやってくる。 ニーチェ風に言わせてもらえば「神は死んだ」である。
ようやく「あなたにとっての神」を信じることを辞める瞬間が訪れる。
これはいったい何をやっているのであろうか?
そう、「真の神」であるあなた自身を毀損させてでも、「幸せになるために」という「あなたにとっての神の掟」を徹底的に守り、邁進しているに過ぎないということ。
真のあなた自身を痛めつけ、ないがしろにし、毀損し、殺害してでも、「あなたにとっての神である自我」を大切にしている、ということである。
そりゃ人生苦しいに決まってるわな。
強烈な洗脳を解く、これには徹底的に生ききって「これは違う!」と拳を突き上げるまでは不可能なのだろう。
それ以外に方法はあるのだろうか。
模索中である。

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