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まだ疑念があるのに明け渡すのは、不自然かつ自己概念の取り換えでしかない

最終更新:  作成開始: 4-05-21 最後↓

 

自分を見棄てて明け渡しは出来ない

 スピリチュアル界隈では「明け渡し」というワードを多く目にする。

 

 人生辛すぎて自分自身を見棄て、誰かの考えにそっくりまるごと明け渡そうとする人もいるだろう。 気持ちはわかるが、明け渡しは、あなた自身が考えるのをやめて(主体性を放棄し)、誰かの考えに委ねる(依存する)ことでは決してない

 

 以前記事にした『とある神秘家との結婚』でも触れたが、あくまでも本に記された当時の著者に対してのものだが、少なからずこの闇を感じた。

 

 明け渡しに関してより詳細に言語化されたものがあったので、ここに備忘録として残しておく。

 

 

 

まだ疑念があるのに明け渡すのは、不自然かつ自己概念の取り換えでしかない

 著書「今、永遠であること」 より (※下線は当方にて)

 

 

 

 「問いかけるという自分の権利を放棄してはならない」、とわたしの友人は言うのです。 他の人たちは、「明け渡すこと」が理想だと言います。

 

 あなたの友人は正しいのです。 まだ疑念があるのに、どうやってすべてを明け渡すことができるのでしょうか? このような明け渡しとは、自然なものではなく、むしろ自分自身の概念を放棄し、新しいもの、あなたの師のものに取り換えるという努力なのです。 これは、新しい概念に対して明け渡しているのであって、真実に対するものではありません。 真実とは概念ではないのです。 あなたの生きた現実リアリティなのです。 つまり、どんな概念からも完全に自由であることなのです。 これを籠の中に入れておくことはできません。 それがあなたの師の言葉という黄金の籠であってもです。 あなたの師が言うことに関してできることは、それも視野に入れるというだけのこと。 あなたの師が真正な人であれば、彼の言葉は次第にあなたの疑念を晴らしていくでしょう。 師の言うことをまじめにとらえ考慮しているということが、すでに完全に明け渡しているということです。 それがあなたにできる一番のことです。

 

 「今、永遠であること」 フランシス・ルシール (P.173) より

 

 

 

 

 

真の明け渡しは、すべての制限から自由であるという深い理解によるもの

 同著書「今、永遠であること」 より (※下線は当方にて)

 

 

 

 明け渡すとは、富やセクシュアリティ、客体を放棄することだと思われることが多いようです。 そのように放棄することは便利かもしれませんが、妨害になることもあります。 自分を切り離された実体、客体であると見なすことをやめたとき、真の放棄が起こります。 この放棄とは、一見して狭いところに制限されるようにも見えますし、シンプルすぎるようにも思えますが、実際には本源的に明け渡しています。 このように断念することに目的はなく、ほんとうの自分、つまり意識は、すべての制限から自由であるという深い理解によるものです。 この見方からは、明け渡すとは、制限を超えたわたしたちの真の存在に重ね合わされた、ただの概念として、制限をそのまま見るという意味です。

 

「今、永遠であること」 フランシス・ルシール (P.141-142) より