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奇跡講座なんてやらなくていい。赦しなんて必要ない

最終更新:  作成開始: 4-12-27 最後↓

 

「奇跡講座なんてやらなくていい。赦しなんて必要ない」乱暴なタイトルだがこれが真実

「奇跡講座なんてやらなくていい。 赦しなんて必要ない」。

 

 セッションを数多く提供してきた今では、明確にそう思う。

 

 結局のところ「自分とつながる」ことこそが第一関門であり、すべてのスタートキーなのだ。

 

 自分とつながっていないかぎり、奇跡講座も赦しも何も機能しない

 逆に、自分とつながりさえすれば、奇跡講座や赦しをやらなくったって今のあなたの抱えている問題のほとんどは消えて無くなる。 

 そういう意味で、多くの人にとって奇跡講座も赦しも必要ない。

 

自分に起こる問題、つまり不幸は自分で起こしているから。

自分で自分の足を踏みつけて痛がっているだけだから。

そしてみんな自分で自分の足を踏みつけていることに気づいていない。

その一番強く踏みつけている足とは何か。

それは「自分を信頼していない」ことである。 

「自分とつながっていない」ことである。

 

 自分とつながってはじめて奇跡講座も赦しも機能する。

 自分とつながっているからこそ、赦しは機能する。

 

 自分とつながっていなければ、赦しをいくらやろうとしたところで無駄以外の何物でもない。

 

 そして多くの人は、自分とつながっていないままに必死で赦しをやる。(やろうとしている。)

 

 

 

奇跡講座や赦しをやるには「自分とつながる」必要がある。「自分とつながる」とは?

奇跡講座や赦しをやるには「自分とつながる」必要がある

 

 

 「自分とつながる?」

 疑問符「?」を持っている時点で、あなたは自分とつながっていない。

 

 「自分とつながっているとは思うけど・・・」

 少しでもこの部分に疑問を持っているのなら、まだあなたはあなた自身とつながれてはいない。

 

 一度でも自分とつながったことのある人は、「自分とつながる」この言葉でピンとくるし、何のことを言っているのかはっきりと理解し認識している。

 

「自分とつながっている」とは何かということを。

 

 明確に知っているのだ。

 それは「自分とつながっていない」状態とはどういうことなのかを知っているから。

 だから「自分とつながっている」状態も明確に理解できている。

 

 もちろん中には、「最初から」自分とつながっているように見える人もいるかもしれない。

 (彼らの多くはそう見えるだけで、そう言わないだけで、実際には若し頃に引きこもりや登校拒否、あるいは早いうちに人生の危機を経て今があることのほうが多い。)

 そんな彼らは今や「自分とつながっているかどうか」なんて気にしない。 それでも彼らは「自分とつながる」ことについて問われれば、何を言っているのか「わかる」と答えるし、その認識ももっている。

 

 もちろん、私を含め彼らもどんなときでも常に自分とつながっているというわけではない。 そこにはグラデーションがある。 つながっていない状況のほうが優勢の人もいれば、いつも自身とつながっているという人もいるだろう。

 

 とはいえ、「つながった」経験を持っているという点においては、「つながった」経験のない人たちとは雲泥の差が存在する。

 

 

 

「自分とつながる」とはどういうことなのか

 「自分とつながる」それは、すなわち「自分と通信する」ことである。

 「自分ともしもし」できていることである。

 「自分自身を権威」にできていることである。

 「自分自身にお伺いを立てる」ことである。

 

 とどのつまり、「自分自身に絶対的な信頼を置いている」ことである。

 これを「自分を愛する」と言ってきたが、「愛」がわかりにくいので、ここではそれ以外の言葉を使うことにする。

 

 他の誰か、親や教師や上司あるいは医者、世間や社会などが言っていることではなく(もちろん考慮されるべきことではあるが)、最終的にはどんなに恐ろしくても優先されるべきは自分自身のほんとうの声であるということを明確に理解できている、ということである。

 

 イエスの言うことでもなく聖霊の言うことでもなくはどう言うのかですら二の次で、最優先されるべきは自分自身の心の声、本心であるということを知っている。

 

 もちろんこれには非常に恐怖が伴う。

 なぜならそもそも自分自身に信頼が置けていないから。

 自分自身よりももっと優れた誰か、「どうしたらいいか」というより良い意志決定者が自分以外に存在すると思っているから。

 

 自分はダメだと言い聞かされてきたから。

 そして自分はダメだと繰り返し今も自分で自分に言い聞かせているから。

 

 私もそうだった。

 (自分を信じようとしたときに直面する恐怖については、次の記事で書くことにする。)

 

 

 

「自分とつながる」にはどうしたら?

 「どうしたら?」はない。

 方法はない

 

 方法でどうのこうの出来るわけがない。

 方法なんてどっちでもいい。

 

 最重要なのは、「本気で自分の声を聞きたいか」ただそれだけだ。

 それがどんなに恐ろしくても「自分のことを最優先に大事にしたいか」だけだ。

 そのためにはまず「自分で自分を否定するのを止める」ことから始める必要はあるが。

 結局のところ「そうしたいかどうか」、それだけ。

 (そもそもそうしたくないのなら出来るわけがない。)

 そう、意欲だ。

 

 混じりっ気のない意欲、ただそれだけ。

 

 「混じりっ気のない」と言った。

 

 「混じりっ気のある」意欲も大いにある。

 そしてそれでは意味がない。

 

 「混じりっ気」それは自我の欲望である。

 そう言っても分かりにくいので、「期待」としておく。

 未来にある期待。

 「幸せになるために」「自分とつながればいい状態になるから」「自分とつながれば問題がなくなるから」・・・

 これこそが「混じりっ気のある」意欲。

 何かを(自分とつながった状態を)獲得することで未来にある今よりもいい状態、幸せな状態を手に入れようとする考え方。

 

 それではダメだ。

 

 ではどうしたら?

 今持っているその「自分とつながりたい」という意欲を真のものか、つまり混じりっ気ないのないものか、混じりっ気のあるものかの見極め作業をすることだ。

 

 見極めるその意欲さえないのであれば、そもそも真の意欲はない。

 ここでも意欲の問題だ。

 見極めた先に、混じりっ気のある意欲だったと分ってしまったら。。

 安心したまえ。

 なんと聖霊が真の意欲を追加してくれる。

 ある意味、よくやったというご褒美として。

 

 混じりっ気のある意欲では見極めきれない。

 自我の意欲では見極めるまでには至らない。

 だから真の意欲が必要である。

 真の意欲があるかないか。

 そんなのカンケーネー

 取り組んでしまえばそれは分かることだから。

 

 

 

あなたは闇を光に運ぼうとする意欲をもったのであり、この意欲が、闇の中にとどまろうとするすべての者に強さを与えてきた。 見ようとする者たちは必ず見るだろう。 そして彼らの中の闇が光に差し出されて、永遠に取り除かれたとき、彼らも私につながり、自分たちの光を闇の中へと運ぶだろう。

 

 奇跡講座テキスト  第18章  三 夢の中の光  6. より

 

 

 

虚無を見過ごすということは、単にそれを正しく判断することにすぎず、それを真に査定できるあなたの能力のゆえに、それを手放すことに他ならない。

 

 奇跡講座テキスト 第10章  四 病気の終わり  2. より

 

 

 

解放されたくないという自分の気持ちをあなた自身が認識することで、聖霊の完璧な意欲があなたに与えられる。

 

 奇跡講座テキスト 第16章  六 実相世界への橋  12. より

 

 

 

あなたの意欲は完璧である必要はない。 なぜなら、の意欲が完璧だからである。

 

 奇跡講座テキスト 第11章  二 癒しへの招待  6. より

 

 

 

 

 

 

恐怖(自我)が強すぎる人は、行く所まで行くしかない

 そうは言っても、人によっては強烈な恐怖(すなわち自我)にからめとられている場合があるので、行く所まで行くしかない。(この強烈な恐怖に掴まれていることすら自覚できていない人は多い。)

 そういう人はそこまで行かないと「真に自分を信じる」決心、覚悟ができない。(まさに自分がそうであった。)

 

 そんな人にとっては恐怖は当然だと思っているので、恐怖を何とかすることに命を懸けている

 つまり恐怖は幻想にもかかわらず、実在するものとしてしまっている。

 

 それはそれでいい。

 なぜならその人は自分の声(その時点では自我の声ではあるが)を聞いてそれを大事にして本気で真剣に取り組んでいるから。

  どの声を聞いているのかは別にしても、やっていることはその時点の自分に対する忠誠心であり愛であるから。

 また、自分の声(自我の声なのだが)を信じ切っているため、他の意見は耳に入らないし、ほんとうの自分の声なのかを疑うことも出来ない、疑うことすらしない。

 

 だから今のまま自分の声に忠実に従うしかないし、自分の望む生き方をやり切ったとき、もはや自分(自我)の声は信じられないとはっきり分かるときがやってくる。 それを悟る日が来る。

 

 結局「自分のほんとうの声を聞かない、優先しない今の状態に大いなる不満が蓄積し、限界まで来ることで、もうこれじゃない!と爆発したとき」ということになる。

(インドの聖者ラマナマ・ハルシ氏は「ロープの終点まで来たとき」という表現をしている。)

 

 そのときはじめて方向転換が訪れる。 そう、恐怖(自我)を信じなくなる地点、それがここだ。

 (だから今のあなたはまだ、自我の声のほうを気に入っている。 自我を信じているし、信奉している。いくら口では自我は嫌だと言ってはいても。 そしてそれが悪いことでもない。 いずれあなたにはちゃんと判別のつく日が来るのだから。 あなたが保有する感情という先生がちゃんと教えてくれるのだから。 そしてついにもうイヤだという日がやってくるのだから。)

 

 終点が来るまではあなたは「ほんとうの自分」を信じないだろう。

 つまり今はまだ自我のほうの自分を信じている。 自我とはまだ訣別できていない、自我が望む方向にしか考えることができない、その方向に未だ魅力を感じている、重要だと思っている、ということを。

 

 

 

自分の惨めさのすべてを見て、自分の計画が失敗したことを自覚し、これからも永遠にそれがいかなる平安も喜びももたらせないと自覚することを通してでなければ、どうしてあなたにその準備が整うだろうか。 

 

 奇跡講座テキスト  第24章  二 特別性の背信  14. より

 

 

 

この世界のすべての道の真の不毛さを理解しない限り、誰が喜んでそれらに背を向けようとするだろう。 それらの代わりに別な道を追求するためには、この理解から始めることが必要なのではないだろうか。 

 

 奇跡講座テキスト  第31章  四 真の選択肢  5. より

 

 

 

幽閉された意志は、その極限においては、まったく耐えられなくなるような状況を生み出す。 (中略)  いずれは誰もが、たとえ漠然とでも、もっと良い道が必ずあるはずだと認識し始める。 この認識がさらに確固としたものになれば、それが転換点となる。 

 

 奇跡講座テキスト 第2章  三 神の祭壇  3. より