最終更新: 作成開始: 4-07-29 最後↓
コメント投稿者さまへ、こちらに回答します
質問者様よりコメント欄に書き込みがありましたので、ブログ記事としてこちらに回答します。
投稿されたコメントを引用
ブログ記事 https://acim.jimdofree.com/forgiveness-will-not-move/ に 崎枝 さんからコメントがありました
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数ヶ月前にセッションをしていただいて、「本当の声を聞いてあげる」とアドバイス頂きました。
正直わかったようなわからないような.. というより頭が混乱してほぼ思考停止。
「この状況をなんとかしたい!!!理解したい!誰かに聞きたい!」と自我が大騒ぎしだしたので長年の経験上こういう時は自我優勢なのでわからないまま放って置くことにしました。
その間大変忙しく色々考えさせられること連発で、
「私が思ってる事が本当にこの世界に反映していて、ある意味自己実現してるんだ」
を自覚する日々、何を見ても「私がそう思ってるからこういう風に見えるんだ。完全に主観の世界だなぁ」
とぼんやり思うようになっていたのです。
「聖霊の思考体系を選びたいのに自我の思考体系を選んでしまうのも、それも私の本心がそう望んでそれが叶ってるんだ」
という事実が腹落ちした瞬間がありました。
本当に突然ふっと抵抗が解けた感じ
以前セッションを受けた時に知的には理解していましたが腹落ちできないというか理解したくなかったのかもしれません。
正直何を混乱しているのかすらわからなかったのです。
ただもやもや状態
「そうか!これが今の私のしたい事か。じゃあオッケーじゃないの?」
とすんなり思たんです。
「これじゃダメだー!」と騒ぐ声が消えたんです。
ずっとどこかで自我を選んでしまう自分を責めていたんだと思いました。無意識すぎてわからなかった。
自我を選んでしまったために起こることはロクな事ないのにこれが「私の本心」だなんてユルセナイ!
こんな感じで抵抗してたのかもしれません
「自我を選んでしまうのも本心がやりたがってるんだからあなたの好きなようにやっていいよ」
と子供達がティーンエイジャーになった頃必ず思った事を自分に自然にしていました。
「赦しのステップ」も全て忘れてただ私の本心の選択をいつのまにか尊重して過ごしました。
先程ふと思い立ってKENさんのブログを開いてハッとしました。
私には「自分と繋がる」というような感覚は正直ありませんが、この数ヶ月自分の選択と選択の結果をただ受け入れた、尊重していたと思います。それは私が長年苦手だった「自我を咎めずに見る」という事なのではないかな?
と思いました。
自動的に自我を選んでしまう自分の選択に諦めたというか「しょうがないなぁ」と認める。自我がやっている事に諦めるゆるすという感じでしょうか?
愛するというと正直抵抗を感じますがもしかしたらKENさんが仰っていたのはこういう事なのかな?
と思いました。
それと同時にラスボスのような観念
「卑小な私が神の子だなんてとんでもない!」が浮上しました。
「だから私は聖霊の思考体系を選択できないししたくない!怖い」
これは赦しのステップ3っぽいので
もう神のみぞ知るのでしょうか……
突如思い立ってダラダラ書いてしまいましたが、これが私の近況です。
聖霊を選ぼうと自我が欲しても最終的な「赦しは」神のみぞ知る。
だったら自我の私ができることはこの状態を維持する、つまり「自我を咎めずに見る」事で自我の選択と結果をただ受け入れ続ける
事だけなのかな?と思い始めています。
方向が間違っていたらご指摘いただけると嬉しいです。
KEN(管理人)による回答
完全に正しい方向を向いています。
おっしゃる通り「自我を咎めずに見る」事で自我の選択と結果をただ受け入れ続ける事だけです。
自我であれなんであれ、今の自分の望むことがそれなのだから、それを受け入れ、許可を出す。
その結果、うまくいっても行かなくても。
その結果、たとえ思わしくない結果に至ったとしても信頼し受け入れ許可を出してもらえたことで、それが自我と同一化している自分自身であったとしても必ず学習し自然に修正していく。 その結果、また信頼が強化される。
これまで自分から咎められて受け入れてもらえず、非難ばかりされてきた自分自身。この自分自身のもたらす結果はイタい結果。さらに相も変わらず繰り返す。 同じイタい結果となるとしても、あなたから信頼された自分自身は、信頼された分、成長し繰り返さなくなる。
とにかくここが一番難しいし、みんな出来ないところです。だからほとんどの人はいくところまで行く必要があるようです。
今回何が起こっているかを解説すると、恐らく多くの人が経験してきたことだと思いますが、親や社会などから「ダメだダメだ、もっとこうしなきゃああしなきゃ、こうならなきゃああならなきゃ」と言われ続けてきました。その結果、そのままではダメなこの卑小に見える自分自身を何とか正しい(と思っている)道に導こうと必死になる司令官としての自分が誕生します。 そして今回はさらに、その司令官の自分がどうやら自我らしいとどこかで耳にしたので、その自我らしき司令官をやめさせようと必死にコントロールしようとする新たな司令官が登場している状態です。
崎枝さんは、すでに司令官として君臨している自分に対して、それまでもさらにコントロールしようとする「新・司令官」としての自分を生み出しました。
ですが、ひとまずはこの「新・司令官」の座からは降りたのです。
司令官として君臨している自分に対しても、それが自我であったとしても、それでいいとオッケーを出せたのです。
これまで無意識に当然のこととしてコントロールすることが重要だし大事だと思っていました。だから大事だと価値を置いていたコントロールを簡単に止めることはできません。ですのでコントロールをやるだけやったんです。限界までやりました。頑張りました。山を動かそうとしてきた。山は動きませんでした。辛い思いをしてきました。しかし結果、違う山が動きました。ついにオッケーを出すという山が動いたのです。
あなたが見るのは、自分が価値を置いている世界である。
奇跡講座テキスト 第16章 六 実相世界への橋 5. より
成功したのです。突破したのです。この部分においてついにコントロールを緩めることができた、つまり手放しが起こりました。
もちろんまだまだ完全ではありません。部分的にできただけです。それでも大成功です。前進したのです。
自我かもしれないその司令官としての自分をティーンエイジャーの我が子に見るように接する。そんな自我かもしれない自分でもちゃんと学習していくことをこのあと目の当たりにしていくことでしょう。
今は間違うことがあっても、今回はうまくいかなかったとしても、それを糧にその自分は次回はより良い選択を自然に採用していきます。
それを信頼し見届けて、自我かもしれない自分という子への信頼を高めていくのです。
とりあえず今回は、卑小に見える自分をより良い状態になるようにコントロールしたがっている司令官としての自分に対して、それすらもさらにコントロールしようと登場してきた「新・司令官」としての自分をようやく緩めることができました。(部分的にかもしれませんし、もしかするとまたすぐコントロール欲が戻って来るかもしれません。)
緩みが定着することで今度は、卑小に見えている自分自身をコントロールしたがっている司令官としての自分がようやくその座から降りるステップがやってきます。
「いつもしゃしゃり出てくるコントロールしたがる私という自分、実はこれがどうやら悪さをしているだけなのではないか?」
この洞察が実際の経験に裏打ちされて、揺るぎのないものになっていけばしめたものです。
近いうちに、卑小に見える自分自身であっても完全に信頼を置く、自分が先導しないコントロールしない、司令官ではなく自分自身に従う者として、接待主として味方として、自分自身を信頼し、常に自分自身に話しかけ、本心に耳を傾けられるときがくるでしょう。
このとき「自分とつながる」とは何かがはっきりと分かると思います。
それは意外とすぐ来るかもしれません。
自分自身を咎めていながら、それでも神を思い出すことなどできるだろうか。
奇跡講座マニュアル編 付録Ⅱ. 祈りの歌 第二章 赦し 3. より
>それと同時にラスボスのような観念
> 「卑小な私が神の子だなんてとんでもない!」が浮上しました。
> 「だから私は聖霊の思考体系を選択できないししたくない!怖い」
確かに今は怖いと思います。自分自身への信頼がまだまだ希薄だからです。
ですが、先ほども書いたように卑小に見えていた自分自身が勝手に成長していくのを目の当たりにすることで、心配のあまり出しゃばってコントロールしようとするこの私こそが邪魔していたという明確な自覚により、自分への信頼が高まっていくことでいずれ解除されるはずです。
ちなみにこれは赦しのステップ3ではまったくもってありません。
まだ赦しにすら入っていません。
ですが心配はいりません。
今はとても大事なところを通過中です。
自分自身と仲直りする、調和する、司令塔、決断の主体の席から完全に降りる、支配権を手放す、コントロールを手放すプロセスの真っ最中でです。
定着するまで何度でもコントロール欲は戻ってくるはずです。
それでも何度でも失敗することで(嫌な気持ちになることで)いずれは完全に席を本来の自分自身にゆずれるときがやってきます。
そして今はまだまったく信じられないかもしれませんが、この卑小に見えている自分自身はその実、勝手に卑小だと見ていた私という自分が居ただけだと最終的には認識するようになります。
ちなみに赦しについてですが、人は人生を通してこの世界や他の誰かや自分自身を変えることで生きています。 変えることが悪いことではありません。 変えたいのだから変える、それで構いません。 ただし、どうしても変えられないものが出てきます。 何をやっても変えられない経験に突き当たったとき、人はそれでもどうにかしようとして変えにかかります。 動かない山をなんとかして動かそうとするのです。 コントロールしようとするのです。 山が動くことが自分にとっての救いであり救済だと見ているからです。
マントラの出番です。 変わらない世界や相手や自分に対して「それでいい」と言います。 当然、「それでいいわけがない!」と自分の中で騒ぎ始めます。
これまでの自分であれば、動かない山をいかにして動かすかに心血を注いできたはずです。 ですが、赦しに取り組む段階では、「本来それでいいものを、それでいいわけがない!と言い張るこの自分にこそ問題がある。その誤った見方は自分のどんな観念価値観がそうさせてしまっているのだろうか。」これを探ることが赦しです。
あなたが救済を神の計画に全面的に任せようとする意欲をもち、自分自身で平安をつかみ取るようなことはしたくないと思うなら、救済はあなたに与えられるだろう。
奇跡講座テキスト 第15章 三 卑小さと偉大さ 11. より
世界を変えようとするのはやめなさい。 そうではなく、世界についてのあなたの心を変えることを選びなさい。
奇跡講座テキスト 第21章 序 1. より
諦めずに自分自身に向き合おうと取り組み続けてくれている崎枝さん、そして心を同じくする皆さんに感謝しています。

コメントをお書きください
崎枝 (金曜日, 16 8月 2024 19:15)
こんにちは
お返事ありがとうございます。私の心の中でこんな事が起こってたんだと理解できました。
ご想像通りあれから私の中の支配者達が消えることはなく、一時期これまでないレベルでの自我の暴走に悩まされました。
自分に正直に少しずつ自分の反応を見れるようになると、今まで小出しに感じてきた感情つまり自分にとって「嫌な事」が以前よりもっとクリアに感じるようになりました。
目に見える物全て「罪」に見えたり、強烈な「自己嫌悪」に直面して死にたくなるほど押しつぶされそうになりました。
SNS等から得られる情報を通しての自分の反応はひたすら感じたくない物ばかり!どこもかしこも地獄にしか見えない!そんな状態が続き頭がおかしくなりそうになりました。
それでも頑張って嫌な感情を誤魔化さないようにしました。
嫌な感情が湧くと、その感情をどうにかしようとする「何か」が瞬間的に現れ同時にその「何か」をさらに現れます。コントロールのループが止まらない!
そこで私はその「何か」の出現にただ気づくようにしました。
「何か」の存在をどうにかせず(否定せず)ただ気づく。ひたすら訓練でした。
感情を素直に見る事の前に、その「何か」の存在を拒否しないようにしたら、徐々に徐々に感情を見ることができるようになってきました。
その「何か」を消したい衝動をそのままにする。消そうとしない。「それでいい」ですね。
とっても大変でした。
いまも苦戦しています。
自動反応なんです。
否定したい!というコントロールに気づき続けてしばらくしたら感情を素直に見れるようになってきました。
「咎めず」にただ見るという作業は聖霊に過去のトラウマを受け入れてもらってる感じがして救われた気分になる時がありました。
あと「素直に見る」時注意していることがあります。
2つの夢を超える事を意識しながら素直に見るようにしています。
個人的な罪悪感の夢が一番身体の私には強烈なので、かえって個人レベルの罪悪感にのみ飲み込まれそうになりました。自分責めが止まらなくなったのです。よって2つの夢を超える事を意識するようにしています。
これをひたすらやっている所です。
本心を見ていると原初の瞬間のようなギョッとするような巨大な闇にぶつかりますが「否定」しないよう逃げないようにだけしています。
これを自分が選択しているなんて訳がわからないですね
ありがとうございます。