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非二元アドヴァイタ「行為者」と奇跡講座

最終更新:  作成開始: 4-06-19 最後↓

 

禅問答「行為する者はいるが、行為者はいない」

 奇跡講座は純粋非二元(アドヴァイタ)であると耳にすることも多い。 まったくその通りだと思うが、そうであってもなくてもどちらでも構わない。

 

 その非二元の教えの中に「行為者はいない」という話がよく出て来る。

 

「行為はなされるが、そこに個々の行為者はいない」

 

 

 つまりこれは、「行為する者はいるが、行為者はいない」というまるで禅問答のような話である。

 

 これはいったいどういう話なのであろうか。

 

 

 

「行為者」とはエゴ(自我)のこと

「行為者」つまり、エゴ(自我)のこと。 自我と同一化している者のこと。

 

「行為する者(行為者の不在)とは、自我と同一化していない者のこと。

 

 

 最終的には「行為する者はいても行為者はいない」ということであり、つまり自我は存在しないという話。

 

 とはいえ、今の私たちは常に「行為者」であるわけではなく、また常に「行為する者(行為者の不在)」でもない。 「行為者」という自我と同一化している場面が多いだろうが、そうでない一面もある混在した存在である。

 

 

 

あなたは自分の選択するままに、霊からでも自我からでも語ることができる。

 

 奇跡講座テキスト 第4章  序   2. より 

 

 

 

 

 そして同じあなたが行動を取るにしても、それが自我からかそうでないかで結果に違いがある、ということ。

 

 奇跡講座によれば、それぞれが正反対の結果を生む。(そのように見える、そのように知覚する。 つまりそのように感じる。)

 

 

 

この世界で作用している心の法則の顕著な特徴は、それに従うことにより ― そしてあなたはそれに従わざるを得ないと私は保証するが ― まったく正反対の二つの結果に行き着くことが可能だという点である。 この理由は、心の法則が世界の現状に即して改変されているからである。 この世界では、互いに葛藤する二つの声に応答できるので、まったく正反対の結果が可能であるかに見える。

 

 奇跡講座テキスト 第7章  二 神の国の法則  2. より

 

 

 

 

 

 

「行為者」かそうでないかの見分け方

 そもそもが自我と同一化していない本来の自分に戻れば何の問題も起こらない。 そもそも問題など一切ないという状態に戻る。 だから皆、赦しに取り組む。

 

 手順として、今自分のこのやっている行為は、実際のところ「行為する者(行為者の不在)」なのか「行為者」なのかを見極める必要がある。 つまり、「本来の自分」からなのか、「自我」からなのか、ということを。

 

 

 

自由への最初のステップは、真から偽を選り分けることを伴う。

 

 奇跡講座テキスト 第2章  八 「最後の審判」の意味  4. より

 

 

 

 

 自我は何か行動を起こすためにそこに期待を込める。 何かを手に入れようとして行動する。 自我は自分を幸せにするであろうと思われる何かを「獲得しよう」とする。 獲得を目指して計画する。 そしてそこには必ず「期待」が伴う。

 

 つまりこれは世界を自分の都合のいいように変えたい、コントロールしたい、思い通りにしたい、という思いがあるということ。 そして期待通りになれば幸せになり、期待通りにならなければ不幸に居続ける、と。

 

 これが自我の戦略であり、同じく自我と同一化している者が考えていることである。 「行為者」の考えていることである。

 

 

 

自我は決して豊かさから与えることはしないが、それは、自分自身が豊かさの代替として作り出されたものだからである。 だからこそ、「獲得する」という概念が、自我の思考体系の中に生じたのである。

 

 奇跡講座テキスト 第4章  二 自我と偽りの自律  7. より

 

 

 

 

 一方、ただ行為だけがある「行為する者(行為者の不在)」は、期待なく計画する、あるいは大きな期待を寄せることなく計画する、そして行為の結果は気にしない。 そうなれば嬉しいが、そうならなくても構わない。 期待した通りにならなくても、もしそうであればそれでいいと分かっているから。 なぜならそれがの思いだから。 の計画だから。 そうなっていたほうが今のこの私にとってはそれがいい、だからそうなっている。 この理解がある。

 

 

 そして奇跡講座でも、赦しのプロセスにおける最初のステップはこの「獲得する」という考え方をしている部分、つまり自我を取り消すことだと書いてある。

 

 

 

取り消しのプロセスにおける最初のステップは、「獲得する」という概念を取り消すことである。

 

 奇跡講座テキスト 第6章  五 聖霊のレッスン   B 平安をもつためには、平安を学べるように平安を教えなさい。  3. より

 

 

 

 

 赦しとは自我を取り消して完全に本来の自分に戻ることだが、そのためにもまずは今の自分の「何かしようとしている動機」を見て、自我かそうでないかを選り分ける必要がある。 自我に気づく必要がある。

 

 すでに行動を起こした後なのであれば、その結果どうなったのかを見ることで、どの自分から選択したのかを確認することができる。

 

 

 

あなたは自分が下した選択をあかしするものを見ることになり、そのことから自分がどちらを選択したかを認識することを学ぶ。

 

 奇跡講座テキスト  第21章  序   2. より

 

 

 

 

 これは赦しという「取り消しのプロセス」をする上で、先行して取り組む必要のあるステップということになる。

 

 

 参考(1):赦しのやり方の全体像を把握する

 参考(2):赦しのトレーニング

 

 

 

スピリチュアル界隈の「私はいない」とは

 赦しによって本来の状態に戻る、アドヴァイタ的に言えば「エゴを焼き尽くす」ことになり、最終的に自我は完全に消滅し「行為者」がもはや一切いない、という状態になる。(中にはプロセスを経ずいきなり「行為者はいない」状態になる人もいるようではあるが。)

 

これがスピリチュアル界隈でよく言われている「私はいない」。

 

 

 つまり「行為する私」は依然としているが、「行為者としての私」は存在しないということ。

 

 もしこの「私はいない」を「行為者としての私はもちろん、行為する私すらいない」という意味を含めた発言なのであれば、そう言っているその人自身は存在するので発言は矛盾する。 矛盾しないと言うのであれば、「私はいない」という発言すら口にすることはないだろう。

 

 

 

「私はいない」は難しい話ではない

 もう少しだけ補足しておく。

 「私はいない」と聞くと、今の自分が消失していなくなるかのような誤解を受ける。 死さえ連想しかねない。

 

 だがそんな難しい話ではない。

 

 かつて大風邪をひいて寝込んで辛い思いをしたことは誰にでもあるだろう。

 そして今や快復してすっかり元気な自分がいる。

 そう、あのころの苦しんでいた自分はもういない。 そんな程度の話だ。

 

 もっと例をあげれば、恋愛当初のあのドキドキ感。 だが月日が経ち、今はもうそんな感情はどこかへ往ってしまっている。

 そう、あのころのドキドキした初々しい自分はもういない。

 

 今自分は何かに苦しんでいる。 だがいつの日かそれが解決する。 そのときにはもう苦しんでいた自分はもういない。 そんな話。

 

 

 かつて自我と同一化した自分がいて、散々苦しんできたが、今や自我はすっかり消失してしまった。 自我と同一化していた自分はもういない。 「自分はいない」は、まさにこの話をしている。

 

 いずれにせよ、自分が消失していなくなってしまったわけではない。 ちゃんと自分は今もいる。 ただ単にそういう話なだけである。

 

 べつに難しく考える必要はなく、その程度の話。 大げさに捉えなくていい。

 

 

 

「無意識に行為がなされる」ということではない

 「行為者はいない」はまったく無意識に行為がなされるということではない。

 もちろん、非常に疲れている場合などには意識なく行為がなされることはあるだろう。

 通常は行為に気づいており、考えや行為衝動が自分の中の自分ではないところから生じる、湧いてくる、といえばいいか。 ふと考えに気づく、と表現する人もいるかもしれない。

 

 私自身は「自分の中に風が吹く」と呼んでいる。

 

 自分の中に欲求(衝動)が生まれる、生じる。

 

 そしてこれとは別の、自我からの欲求欲望衝動をこの欲求(衝動)と混同することはよくあることである。

 

 

 

奇跡衝動を肉体レベルの衝動と混同することは、知覚の歪曲の主要なものである。 肉体レベルの衝動は、間違った方向に向けられた奇跡衝動である。

 

 奇跡講座テキスト 第1章  七 奇跡衝動への歪曲  1. より

 

 

 

 

 だから選別が必要であり、そこから始める。

 

 もちろん風が吹かないときもある。 そのときは待つことも必要。 風が吹かないのに何かをしようとしているなら、それが自我であり「行為者」である。

 

 

 

「行為者」の自分に気づくことが大事

 とはいえ、「行為者」がダメだということではない。

 

「ただ行為している者」なのか「行為者」なのかに気づいていることが大事

 

 

 今はまだ訓練ができていないのだから、赦しが終わっていないのだから、赦しにすら取り掛かれていないのだから、「行為している者」と「行為者」との結果の違いを肌感覚で実感する必要がある。

 

 まだまだ「行為者」として選ばざるを得ないし、すぐに「行為者」を止められるわけでもない。 「行為者」としての行動を取ったときの事の成り行きを見守り、そこから何かを学ぶことも重要なプロセスである。