最終更新: 作成開始: 4-12-15 最後↓
奇跡講座で言う「カリキュラムの真の方向転換」
正確には、「奇跡講座に真に取り組むには、考え方のコペルニクス的転換が必要」である。
これは、奇跡講座で言う「カリキュラムの真の方向転換」の話しである。
最近もうほとんど書くことが無くなってきた。
すでに書き尽くしたのである。
今回の記事内容に関しても、すでにいろんな箇所で書き連ねてきたことのおさらいである。
奇跡講座に取り組むには最大の難関として2つのことがあると私自身は整理している。
そのうちの1つはこれだ。
この「コペルニクス的転換」これが必要だということである。
どういうことなのかもう少し詳しく見ていくことにする。
私たちは「幸せになりたい教」に入信している
多くの人にとって、「あなたはすでに宗教に入っていますよ」と言われても何のことだか分からないだろう。
あまりにも当たり前になりすぎており、当然のこととしてその考え自体を認識したことすらないからである。
だが、私たちを日々駆動させているのはこの「今よりももっと幸せになるためにはどうしたらいいか」という考えなはずである。
そう、「今よりももっと幸せになりたい」そうでなくても「今よりはもう少しましになりたい」と思って日々過ごしているだろう。
それがいいとかわるいとか言っているわけではない。
それはそれでいい。
いずれにしても「幸せになりたい教」に入信していることは確かだ。
「幸せになるためにはどうしたらいいか教」
ここには常に「今まだ幸せでない自分」が前提として存在している。
そして、奇跡講座はそこからでは取り組むことはできない。
いや、取り組むことはいくらでもできるが、正しく取り組むことはできない。
「幸せになるためにはどうしたらいいか教」は自我の宗教だから。
奇跡講座に正しく取り組むには
では、奇跡講座に真に取り組むには何が必要なのか。
「本来幸せなはず教」。
これが必要である。
そう、コペルニクス的転換が必要。
「今まだ幸せでない、だから幸せになりたい」ではなく、
「本来の自分は幸せである 今そう思えていないとしたらこの自分は何を勘違いしているのだろう」。
つまり「幸せになりたい教」→「本来幸せなはず教」への転換。
これが必要である。
これは奇跡講座の言葉で述べれば、
「幸せになりたい教」は自我の教えであり、「本来幸せなはず教」は聖霊の教えとなる。
自我の考え方は、『獲得』を目指す。
聖霊の考え方は、『白紙』を目指す。
自我の考え方は、自分を幸せにするであろう何かを探し獲得することで幸せになろうとする。
聖霊の考え方は、幸せを遮っているものに気づいて白紙に戻すことにより幸せに戻す。
何をやろうが「幸せになることなんて不可能なんだ」と悟ることが必要
こう書くと、なんだそんなことか、すぐ取り組めるね、と考えるかもしれない。
だが、多くの場合、このコペルニクス的転換は簡単ではない。
なぜなら、大部分の人はこの話しを聞いて、「幸せになるために『本来幸せなはず、、だから幸せを遮っているものに気づいて白紙に戻そう』とする」からである。
つまり、「幸せになれるとか幸せになれないとか関係なく、『ただそうしたい』と思って取り組めるか」どうかが勝負となる。
要するに、「幸せになる?そんなのかんけーネー。不幸になろうが幸せになれなかろうが、ただオレはそうしたいんだ。」純粋な意図からの取り組みが必要となる。
そしてこの境地は、たいていは散々「幸せになりたい教」を徹底的に生き切って、何をやろうが「幸せになることは不可能なんだ!」と悟る必要がある。
まだ多くの人は何かをやれば幸せになれると思っている。
そこに希望をもっている。
「こうすれば幸せになれる」そう約束してくれている多くの先人たちがいるから。
その人たちを疑うなんておこがましい。 できない。するべきではない。
まだやり切ってもいないのに、そしてまだやれることが残っていてその途上なのに、「幸せになることなんてできない!」と結論づけられるわけないだろう?
いや、絶対に幸せになれるのだから。
幸せになる! 私は何がなんでも絶対に幸せになってみせる。
アーメン。
関連動画:奇跡講座と赦しに取り組むすべての人が最初に見る動画(#1,#2)
もしあなたのカリキュラムの成果があなたを不幸にしているなら、そしてもしあなたが異なった成果を望むのであれば、明らかにカリキュラムの変更が必要である。 導入されるべき最初の変更は、方向の転換である。
奇跡講座テキスト 第8章 一 カリキュラムの方向 5. より
真の方向転換が可能になるには、その前にまず、このようなカリキュラムがまったく無意味であることが充分に認識されなければならない。
奇跡講座テキスト 第8章 一 カリキュラムの方向 6. より
自分の惨めさのすべてを見て、自分の計画が失敗したことを自覚し、これからも永遠にそれがいかなる平安も喜びももたらせないと自覚することを通してでなければ、どうしてあなたにその準備が整うだろうか。
奇跡講座テキスト 第24章 二 特別性の背信 14. より
この世界のすべての道の真の不毛さを理解しない限り、誰が喜んでそれらに背を向けようとするだろう。 それらの代わりに別な道を追求するためには、この理解から始めることが必要なのではないだろうか。
奇跡講座テキスト 第31章 四 真の選択肢 5. より
この世界が提供できる道は膨大な数にのぼるように見えるが、どの道も他の道と同じだとわかるときが、誰にも必ずやってくる。
奇跡講座テキスト 第31章 四 真の選択肢 3. より
世界は真の選択を提供できない。 そのすべての道は、失望と虚無と死に至るだけである。 (中略) 選択できるのは、結末がどうなるかではなく、いつその結末が来るかだけである。
奇跡講座テキスト 第31章 四 真の選択肢 2. より
絶望せずに、この世界の中には答えが見つかる希望はないということを、今、学びなさい。
奇跡講座テキスト 第31章 四 真の選択肢 4. より
この世界の中の何かが自分に平安をもたらしてくれると信じて、それを手に入れようと努力するとき、あなたは自分を卑小なものにしており、栄光に対し目を閉ざしている。
奇跡講座テキスト 第15章 三 卑小さと偉大さ 1. より
あなたには気の済むまでいくらでも卑小さの形態を試してみる自由があるが、それによってあなたがしていることは、自分の帰郷を遅らせることだけである。
奇跡講座テキスト 第15章 三 卑小さと偉大さ 2. より
十字架刑の唯一のメッセージは、あなたは十字架を克服できる、ということだけである。 そのときまで、あなたは好きなだけ何度でも自分自身を十字架にかけることを選択できる。
奇跡講座テキスト 第4章 序 3. より
こうした繰り返しは、自発的に放棄されるまで果てしなく続いていく。
奇跡講座テキスト 第4章 序 3. より
幽閉された意志は、その極限においては、まったく耐えられなくなるような状況を生み出す。 (中略) いずれは誰もが、たとえ漠然とでも、もっと良い道が必ずあるはずだと認識し始める。 この認識がさらに確固としたものになれば、それが転換点となる。
奇跡講座テキスト 第2章 三 神の祭壇 3. より
ワークブックは自我の洗脳解除のための本
もし万が一にも純粋に赦しに取り組める人が現れるかもしれない。
そんな彼らであっても、すぐには完全に転換することはまれだ。
これまでに染みついた古い考え、つまり「幸せになりたい」という考え(=これは「今幸せでない」という考え)、これにあまりにも洗脳されすぎていて、常態化しすぎていて、刷り込ませすぎていて、無意識レベルの思考と化している。
これを外す役割として奇跡講座のワークブックが存在する。
1冊まるごと洗脳解除のための本である。
自我の考え方を解くための本である。
そして聖霊の考え方をインストールするための本でもある。
人によっては1年かけてみっちりと洗脳を解いていく必要がある。
奇跡講座における難関2つ目
冒頭に奇跡講座に取り組むには難関として2つあると言った。
そして最大のカギを握るのはこちらのほうだ。
2つ目もすでにこれまで散々記事にしてきた。
併せて書いておく。
それは「どんなに恐ろしくてもほんとうの自分の言うことを聞く」ことである。
こちらのほうが難易度が高い。
それくらい人類はみな自分自身のことを信頼していない。
自分ではない誰かのほうが自分よりも信頼がおける、正しいはずだという信念であふれかえっている。
そう、「自分に従う」。
ほかの誰でもなく「自分を信じる」。
つまり「自分を愛する」ということだ。
人はいつか自分と勝負する日がやってくる。
そう、覚悟する日が。
自分を愛するという覚悟を。本気の選択を。
あなたが自分自身を見捨てることを選んでいる間は、私は待たなければならない。
奇跡講座テキスト 第4章 三 葛藤のない愛 7. より
そして2つあるとしたが、実は1つの同じ側面のものである。
なぜなら同時に達成し得ることがらだからである。
むしろこの2つ目にある「真に自分を愛する」がゆえに、自分自身に耳を傾け、ほんとうにしたいこと、つまり「ただそうしたい」。 それが1つ目につながるからである。
いずれにしても自我からでは選択することができない。
自我を信じてやり切った暁に、もはや自我は信じることができないとこのうえなくはっきりと悟ったときに起こることと言える。
おわりに。
奇跡講座の真の取り組みが始まるためには、『ただそうしたい』という純粋な意図が必要と述べた。
「幸せになるために」取り組むのではないと再三伝えてきた。
「幸せになるために」奇跡講座をやってはいけないのか? 「苦しみから逃れるために」赦しをやってはいけないのか?
『目的をもって』取り組んではいけないのか?
いいえ。 取り組んでいい。 だってやりたいんでしょ? 大いに取り組むといい。 躊躇せずガンガンやろう。 私もそうだったのだから。
それでほんとうに「幸せになったり」「苦しみから逃れられる」かもしれないでしょ?
「幸せになったり」「病気が治ったり」「苦しみが解消したりする」そんなふうにどこかで耳にしたのだから、それに賭けたいでしょ?
今はまだあなたにとっての結論が出ていないのだから、徹底的に取り組もう。
あなたの結論として本当にそうなれるかもしれないから。
ただしどうせやるなら、「もしこれで幸せになったり苦しみから逃れられなくても、やってみてその結果を確認したいから、私はやる。」で取り組んで欲しい。 これにより自己責任の範疇で取り組める。 もはや人のせいにすることはできない。 少なくともこの覚悟は持って取り組んで欲しい。
期待は追いやる。
期待して取り組むと結果が伴わなければ落胆するものだから。
そして時には何度でも何回でも気が済むまでやってみて、その結果どうだったのかを確認しよう。
いつの日か、幸せになれるか、あるいは別の結論に至るかもしれないから。
そこが重要なのだから。
私自身もそうやって自分にとっての結論を見出してきた。 そして今後もまた別のことについて取り組んではその結果どうだったのかのデータを集め検証し、自分にとっての結論出しに務めていく。 誰が何と言おうと(たとえ奇跡講座にそう書いてあろうと書いてなかろうと)それだけでは鵜呑みにせず、「この自分にとっては本当のところどうなのか」自分自身が実際に体験を通したデータによってそれを見出す必要があると考える。 それが自分自身を信じ、自分自身に納得する、つまり自己と調和することであり、これも自分を愛する一環だと私は認識している。
もちろんあなたはそうしてもいいし、そうしなくてもいい。 あなたはあなたのやり方があるだろうし、あなたのやり方であっていい。 あなたのやり方でぜひやって欲しい。 可能なら、あなた自身に聞いてあなたのしたいことをあなた自身にさせてあげて欲しい。 私からの祈りとして。

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エム (日曜日, 15 12月 2024 13:58)
KENさん久しぶりのブログの更新ですね。
私はKENさんのセッションを初めて受けたことがきっかけで『コペルニクス的転換』が起きた一人です。
あの時私に何が起きたのか時折り考えていましたが、これがファイナルアンサーかもしれません。
私は自分のやり方で世間一般的な幸せを求めていましたが上手く行きませんでした、その時は外側に大きな問題と心はズタボロで私に見えている行き先は「地獄」しかないという危機感でした。
私はこの時閃きました、自分のやり方は失敗したから幸せや自己実現を知ってそうな先人達から学ぶことで世間一般ではない「私」の特別な幸せを探し求めようと(この期間は8年です)
結局私の求める幸せは見つからず
次に私の目の前に現れたのが「私」など本当はいないのだから「私」を諦めることで本当の幸せになれると言っている人達でした。
ノンデュアリティーのスピーカーさんや奇跡講座のティーチャー達です。
私はコースの知識を信じて赦しを実践すれば本当の幸せ(悟り)が手に入ると信じて学んでいました(2年半ほど)
結局どちらも何かをするという自我の獲得思考で『幸せ』に『平安』になれますよという教えでした。
そしてどちらも私を幸せにする事は出来ませんでした。
KENさんと話すことで獲得思考から急き立てている自分の自我の厳しさにやっと自覚が持てました。
一方で私はそんな自分を気に入っていることも自覚できました。
どん底なダメダメで大嫌いだった自分からここまで頑張ってきたことで、理想的な自分とまでいかなくても自分っていい奴なんじゃないかと思えるぐらい自分のことが好きになっていたからです笑
赦しのために今の自分の生き方を変えることは出来ないし、したくありませんでした。
私は今の自分を気に入っている以上赦しで幸せ(悟り)を手に入れることは無理なのだと自発的に諦める事ができました。
悟りとは関係なくコースを学ぶことは私にとってやりたいことだったので趣味程度に知識を学ぶことは続けていこうと思っていました。
そしてセッションの翌日に突然KENさんから受けた質問「なにも制限もなければ本当は何がしたいのか?」が頭の中にリフレインされました。
私は赦しを納得して諦めていたのでその時は何にも執着が無い状態でした。理想的な自分であるべきがあの瞬間は手放されていました。
そして本心の願いが明確になりそれを叶えてあげれる自分がいることにも同時に気がつきました。
この時「準備が整う」が内側に起きたのだと分かりました。
KENさんは二つ目の難関には覚悟がいるしこちらの方が難しいと書かれていましたが、私にとってはここは覚悟の問題では無かったようです。
それは10年近く「私」を幸せにする事を諦めなかった下積み期間が、本心の願いを叶えてあげられる自分が信頼に足るのだと信じられたのではないでしょうか。
私の本気の覚悟は準備が整ってから起きたと思っています。
どちらにしても、自分に対しての自我の厳しさと今の自分を気に入っている事が自覚されなければ赦しに至る私の転換は起きなかったはずです。その気づきを与えてくれたKENさんのセッションに感謝しています�