最終更新: 作成開始: 4-05-19 最後↓
「赦しのトレーニング」のおさらい
赦しは自分の内面に向き合い、幻想を見極め直視していく作業が伴う。 しかも「咎めずに」見る。 「聖霊と共に」見る。 これが普通の人にとってはとにかく難しい。 このあたりは別の記事に譲るが、幻想直視は難易度が高い。 だが赦すためにはいずれ通らなければならない。 そのためにも今はまず、比較的やさしいところから訓練していくという主旨で「赦しのトレーニング」という記事を過去に投稿した。
おさらいとして、人はもともと真の自己がベースにあるが、自我に取り込まれた卑小な自己(こちらは幻想であり統合されるべき自己)との混合状態にあると言える。
たいていの人にとっては、後者のほうが勢力が強い。 だから人生に問題が多く発生する。 ただ、いくら後者の勢力が強いからといって、すべてがその勢力だけの人も存在しない。 必ず真の自己とのブレンドになっている。
真の自己からくる思いは問題を起こさない。 問題になるのは卑小な自己(自我)からの思いのほうだ。
この卑小な自己からのものをきちんと直視して解除することが赦し。
だからこそ今の自分の思いが、真の自己のものなのか卑小な自己からのものなのかの見分けが大事になってくる。
だが先ほど言ったように幻想直視は難しい。
なので、まずは真の自己からくる思いのほうを確認することを優先する。
そのために「恐怖由来のものなのか、そうでないのか」を見極める。
ほとんどが「恐怖由来」なはずだ。
つまり、「嫌なことを避けるために」「嫌なことを克服・解決するために」など、嫌なことがきっかけで発生している欲求・ニーズになっているはずだ。
中には「ただそうしたい」という純粋な思いも見つかるかもしれない。
あるいは、先ほどの嫌なことを避けるための欲求や思いだったものも、もし「恐怖、嫌なことがなかったら」「何をやっても問題が一切ないなら」という問いに対しては「だったらこうしたい、こうする」という意見が出てくるかもしれない。
つまり「恐怖をベースにしていない」思い、意見。
自我由来の思いに深く向き合っていく幻想直視よりも、仮に本来の自己ならどう答えるかを確認するほうが容易だ。 この作業をすることで、今自分は自我からなのか、本来の自己のものなのか、あるいは自我からのものであっても本来の自己からならこう答えるのか、といった確認ができる。
つまり真偽の見極め作業に慣れていく。 そして真の思い、本来の自己からの思いを見つけることで、意識的にそちらを尊重していくきっかけにもなる。
自分の行動に関する思い/動機が、本来の自己か自我からのものか、その源に人生の結果が連動していることに気づけるようにる。 そうなれば、必然的に自身の内面に今以上に関心が向くことになり、やがて「なんとかしたい」という意欲にもつながっていく。
もちろん、この問いかけ自体も慣れないうちは難しいと感じるかもしれない、一人では出来ないかもしれない。
自分に聞いて「やりたくない」のであればやらないこと
何度も同じことを書いているが、とはいえ今の自分自身の気持ちが最優先。 これが自分を愛することであり、自己尊重であり、自分を権威にするということ。
「やりたくない」のに自分に「やらせる」のは強制であり、自身に対する暴力である。
「幸せになるために」やるのであればやめておく
これら一連の「赦しのトレーニング」について、自分が「幸せになるためのものとして」行うのであれば、成果は出ない。
「幸せになるために」といった思いをいったん横に置いて、「そんなの関係なくただやってみたい」「自分が大事だからこそ、そうやってあげたい」という思いがあるのであればぜひ取り組んでみて欲しい。
そして全員が今このトレーニングが必要なわけでもない。 ほとんどの人にとってはこんなことよりも単に「好きな音楽を聴く」や、「おいしいものを食べる」、「子供たちと一緒にいる」ことのほうがはるかに重要だ。
成果は関係なく、そして成果なんて気にすることなく、つまり幸せなんて気にせず、単純に「やりたいことをやる」。 これがもっとも重要である。
赦しもこのトレーニングも、「なぜだかわからないけど、自分はやりたい」、「気がついたらやっている」そういう人がやるものである。
無理してやるものではない。
頑張ってやるものでもない。
ただやりたいからやるだけのこと。

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